July 4, 2009
世界の姿を捉えるために
- これまでの軌跡と現在のテーマ -
「絵画がいかに変わろうと、絵画が何に描かれ、何に縁取られようと、問題はいつも同じだ。何が起こったのか。カンバスや紙や壁は何かが起こる舞台である。」(ロラン・バルト)
私は絵画を「空間表現」というキーワードで理解している。
例えば聖母子像などの宗教画であっても、宗教上の図像や物語的な解釈以上に、空間の描き方に注目する。画面のどこに見る者の視点を誘導し、集中させているのか。そこに使われている技術や空間表現の特徴を読み解いていくことにより、根底にある画家の意図や個性を探ろうとする。画家個人が獲得し、表現した世界に思いを巡らせ、その中に入り込むことによって、今現在自分がいる世界に対しても新しい捉え方を身につけることができる。宗教画に限らず、単純に見える肖像画や風景画でもそれは可能である。もちろん東洋や日本の伝統的絵画も、同じように空間の描き方で読み解いていくと、慣れ親しんだものとは違った見え方をしてくる。
絵を描く時にもこの「空間表現」が重要なキーポイントとなっている。「今現在ある空間をどのように把握し、そしてどのように描くのか」ということが画家としての私の最大の関心事である。私は「空間表現」によって世界を理解し、今自分が生きている世界を描いていこうとしているのだ。
絵画制作を始めた頃は絵画とは何なのか手探りの状態であった。ただつくりたいという思いだけが強くあり、よくわからないままに絵具を画面に置き、自分が良いと感じた所で完成とする作業を繰り返していた。そしてその中から自分の求めるビジョン(映像)を探り出し、表現したい事を絞り込んでいった。そうして一連のシリーズとなったものが、地平線や水平線を感じさせるラインを画面下部に入れ、鑑賞者が見ている位置から広がる空間を表現した作品達である。それらは現実にはない、自分の心の中だけにある理想を絵にしたものであった。
しかしそのシリーズが安定し始めた頃から、私は自分自身と作品に対してある壁を感じるようになっていた。それまで私は制作の源を自分自身の内側にしか求めていなかった。自分の表現したいことは、自分の内側に見出すものであると考えていたのだ。しかし、私は独立した一個人であると同時に、世界の一部でもある。この、世界内存在としての自覚は、美術史をさかのぼり、多くの作品を見ることを通じて気付いたことでもある。そして、私の態度は、それまでに見ようとしなかった自分の外側の世界に目を向け、絵画の可能性を追求しようとするものに変化したのである。
「どのように把握し、そしてどのように描くのか」という命題は絵画の基本だ。だからこそ、決して色褪せる事はない。把握における一手段としての「見る」という行為でさえも、肉眼から鏡、レンズ、写真、モニターや液晶スクリーン等の機器の発展によって多様化し、また、そこに映し出される画像も容易に加工、編集できるようになっている。その上に、描く人間も常に新しく生まれて来ている。今現在も、新しい状況が生まれては変化し続ける、エキサイティングな環境がここには在る。
その中で私自身は「今生きている世界」をどのように把握し、描いていくのか。
私たちが目にしたものすべては、音や香り、温度や感触など、様々な要素を含みながら、身体の中で次々と混じり合い、重なり合っていく。強調され、省略され、あるいは形そのものを変化させながら、記憶の中に積み重ねられていく。そのように蓄積された「見えていた風景」のほうが、レンズを通して瞬間を捉えた写真のようなものよりも、「今生きている世界」の姿をより忠実に表すのではないか。 私はこの「見えていた風景」を制作のテーマに据えた。具体的に始めたこととして、風景やモノの写生を数多く試みるようになった。新しい言葉を知ることによって世界に対する知識が増えるのと同じように、線や形、色といった絵画の構成要素の語彙を増やし、より豊かな空間表現を獲得したいと考えている。
また、油彩だけでなく、様々な画材で実験的なアイデアスケッチを重ねている。これは自分の中にある記憶の写生とも言える作業であり、また「見えていた風景」を画面に定着させるために必要な表現技術の鍛練でもある。
こうした、見ることと描くこととがより密接に結びつく「写生的」なアプローチを通じて、変化し続ける世界の姿を捉えようとしている。今自分が生きている世界を「見えていた風景」として描き、表現していくことを積み重ねている。
その繰り返しにより、私個人が見ている世界も普遍的な空間表現へと純粋化されていくだろう。これこそが私が絵を描く理由であり、絵画に求めるものなのである。
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